偉人と酒 ~越後の龍 上杉謙信~

天性驍健、いかなる鬼神も挫かん

「景虎天性驍健にして、一旦怒れる時は原野に火を放つが如し。いかなる鬼神も挫かんと云う。しかれども時過ぎ事去れば、その勇釈然として万事において思慮あり。」(『上杉家御年譜』より)

戦国時代に関東地方をほぼ手中に収めた名将である北条氏康は、上杉謙信をこう評している。氏康自身も「顔面に向う傷2筋、身に刀傷7か所」という凄まじい戦歴の持主だが、その氏康がかくも勇猛ぶりを称える謙信とは、どれほどの猛将だったのだろうか。

上杉謙信の肖像 謙信が自身の理想像を描かせたとされる

上杉謙信は享禄3年(1530)1月21日に越後守護代長尾為景の末子として生まれ「虎千代」と命名された。天文5年(1536)、7歳になった虎千代は林泉寺に預けられ、禅僧天室広育の教えを受ける。林泉寺での数年間の生活は、虎千代の人格形成に大きな影響を与えた。

天文12年(1543)に虎千代は14歳で元服し「景虎」と改名。天文17年(1548)には19歳で家督を相続し、越後守護代となる。この後、長尾景虎(のちの謙信)は、生涯にわたり信義を貫いた戦ぶりを天下に示し、戦国最強の武将として歴史に名を輝かすこととなる。

謙信は仏教への信心が深く、毘沙門天(外敵を撃退する神通力をもつ仏法四天王)を信仰していた。それどころか「自分は毘沙門天の化身である」と称して24歳で出家し、一切女人を近づけず、不犯を貫いたとされる。そんなストイックな暮らしぶりの産物か、謙信の武勇は卓越したものであり、生涯70回戦場に赴くも敗北は僅か2回であった。

また、宿命の好敵手であった武田信玄とは天文22年(1553)から「川中島の戦い」で12年間に計5回にわたり激戦を繰り広げたほか、天正5年(1577)の「手取川の戦い」では柴田勝家率いる織田軍を粉砕したことを初めとして、その勇猛ぶりを示すエピソードは枚挙に暇がない。

とはいえ、謙信の戦に全てを捧げたような暮らしぶりを知るにつけ「そんな禁欲的な生活を続けてストレス溜まらない?」と心配になるが、謙信についてさらに紐解いていくと、意外なストレス解消法があったとわかる。それが「飲酒」である。

謙信はどれくらい飲んでいたのか

謙信の本領である越後(新潟県)は米どころで水も良いため美酒が多い。その恵みを存分に享受するといったところか、謙信も無類の大酒飲みであった。戦場においても馬上で杯を手放さず、山形県米沢市の上杉神社にはその名も「馬上杯」という遺品が残るほど。

この杯は直径12cmほどの大杯で、酒が3合は酌める代物である。謙信の時代の酒はアルコール度数が現代の清酒の半分程度(ビールくらい)の濁り酒であったようだが、それにしても大杯でグビグビと飲み干すとあらば相当な酒豪には違いない。

謙信が愛用していた馬上杯のレプリカ

アルコールは体内で分解されてアセトアルデヒドに変化する。人が酒に強いかどうかはアルデヒド脱水素酵素の遺伝子配列によって決まるとされ、この配列は ①分解能力が高い「グルタミン・グルタミン型」、②分解能力が低い「グルタミン・リジン型」、③分解能力がほとんどない「リジン・リジン型」に分類される。

②のグルタミン・リジン型や③のリジン・リジン型の人が無理に酒を飲み続けると、アセトアルデヒドの分解に時間がかかるため発がん率が高まるという。謙信ほどの酒豪であれば①のグルタミン・グルタミン型に属したと推察されるが、体質に恵まれてもそれを上回る不摂生を続ければ、のちに報いを受けることになる。

謙信は何を肴に飲んでいたのか

最大版図では越後・越中・佐渡・能登・上野・加賀・信濃を有する大名であった謙信だが、その酒席は質素なもので、梅干しや塩を舐めながら1人で飲むのを好んだという。

梅干しのような塩気の強い食べ物を舐めながら飲むと、酒の甘みが感じられて大層うまいが、同時にとても体に悪い。慢性的に必要以上の塩分を摂取すると、血圧が上昇→高血圧により動脈硬化→動脈硬化により血圧が上昇→高血圧により動脈硬化…という悪循環に陥るのである。

塩気の強い肴とお酒は最高のマッチング

謙信は「敵に塩を送る」という故事で名声を高めた。東海の太守たる今川義元は桶狭間の戦いで織田信長に討たれ、衰退する今川氏を見た甲斐の虎 武田信玄は今川氏の本領である駿河に侵攻。

合戦では信玄にとても敵わない義元の嫡男 氏真は、武田領への塩の流通を禁じた。武田領から見て南海の今川氏、北海の上杉氏が揃って塩の流通を断てば、内陸である武田領内は一気に窮乏したことだろう。

しかし、謙信は「自分は武田の武将と戦っているのであって、民と戦っているわけではない」と宣言して塩の流通を禁じなかった。この出来事により、謙信は「義将」としての面目を施したが、この越後の豊富な「塩」が謙信の身体を蝕んでいたのである。

謙信は酒を飲んでどうなったか

高血圧は脳卒中の最大の危険因子である。多量の酒と塩気の多い肴により高血圧になっていたであろう謙信は、果たして、元亀元年(1570)年に脳卒中に見舞われる。このときは軽症であり命に別状はなかったが、後遺症として左片麻痺を生じ、以降は左足を軽く引きずって歩くこととなった。

「これで大酒には懲りただろう」と思うところだが、謙信は禁欲的な生活を送った人物であったから、飲酒が唯一の楽しみであったのかもしれない。また、はじめに書いたとおり、謙信は「天性驍健≒プライドが高く激しやすい性格」であった。激しい気性とストレスを緩和するために飲酒が欠かせなかったのか、身体的な後遺症に悩まされながらも飲酒は全く控える気配がなかった。

それから8年後の天正6年(1578)、謙信は下総の武将 結城晴朝から「北条氏政が北武蔵を蹂躙しているので鎮めてほしい」という要請を受け、また信長に追われた征夷大将軍 足利義昭から「毛利輝元と同盟して信長を挟撃してほしい」という要請を受けた。

これらの要請を受けた謙信は、関東を平定した後に上洛を果たさんとして、越後の春日山城で着々と軍備を整える。軍備のかたわら、城内では連日のように軍議や酒宴が行われ、謙信は重臣の直江兼続らを相伴させて大杯をあおっていた。

謙信が最期を迎えた春日山城(模型)

ある日、謙信は用を足すために厠へ行ったが、いつまで経っても席に戻らない。家来たちが厠へ様子を見に行くと、脳卒中が再発したのであろう、謙信は白目を向いて昏倒していた。その後は懸命な治療が行われ、倒れて3日目には一旦意識を取り戻すも、発する言葉は要領を得ない。

8年前と違って今回は重篤であり、発病4日後の天正6年(1578)3月13日午後2時頃、謙信は帰らぬ人となった。享年49。現代の医学で考察すれば、死因は再発性高血圧性脳出血であるという。

おわりに

「 歴史上の偉人の飲みっぷりについて学び、酒との付き合い方について考える 」という趣旨の本稿だが、案の定な結論が出てしまった。たとえ酒豪体質であっても、飲みすぎればやはり体を壊す。

謙信の辞世の句は七尾城攻略中に詠んだとされる「四十九年一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒」であるが(後世の偽作との説あり)、もし謙信が49年といわず60年や70年生きていたら、歴史はどう変わったのだろうか。

戦国の覇者 織田信長との直接対決は、どのような結果になったのだろうか。世継ぎを定めてから死去すれば、後継者争い(御館の乱)で上杉家が衰退することもなかったのではないだろうか。そのようなことに思いを馳せると、謙信の早世が誠に惜しいと感じられてくる。

謙信と同じく、上洛を企図した途端に死去した宿敵 武田信玄の死因(結核もしくは食道がんとされる)に比しても、謙信の場合は自業自得な感が強い。言ってしまえば、謙信の生き様は諸侯を感服させる見事なものであったが、その死に様は見事とは言い難い。

謙信の酒との付き合い方を紐解いて我々が学ぶべきことといえば、もはや自明ながら「酒は適量を味わい、塩分の多い肴は控え、無茶苦茶な死に方はしない」といったところであろうか。耳が痛い話である。

参考文献

・篠田達明著『戦国武将のカルテ』角川ソフィア文庫、2018年

・早川智著『戦国武将を診る』朝日新聞出版、2017年

・学研 歴史群像シリーズ『戦国合戦大全 上巻 下剋上の奔流と群雄の戦い』㈱学習研究社、1997年

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