中国古典名言集【その3】

前回・前々回に引き続き、中国故事名言bot のために作成したデータベースから、中国古典の名言を紹介します。

なお、今回でストックが尽きたので、同趣旨の記事は終了です。

詩情・風流

胡馬は北風に依り、越鳥は南枝に巣くう。(無名氏「古詩」) 
北国の胡の馬は、北風の吹く方へと身を傾ける。南国の越の鳥は南向きの枝を選んで巣をつくる。故郷は忘れがたいものだ。
今人は見ず、古時の月。今月曾て古人を照らすを経たり。(李太白「把酒問月」) 
今の人は昔の月を見たことはないが、今照っている月は昔の人を照らしてきた。人の時には限りがあるが、天地は悠久である。
月白く風清し。この良夜を如何せん。(蘇東坡「後赤壁賦」) 
月は白く、風は清らかだ。こんな素晴らしい夜を、どうやって楽しむのがよかろうか。
峨眉山月半輪の秋。影は平羌江水に入って流る。(李白「峨眉山月歌」) 
秋半ば、峨眉山に冴え照る半輪の月。その月影が平羌江の水面に落ちて流れてゆく。
祇今惟だ西江の月あり。曾て照らす呉王宮裏の人。(『唐詩選』衛萬「呉宮怨」) 
今も月は西江のほとりに輝いている。遠い昔、呉王の後宮に仕えていた西施を照らした月が。
秋水長天と共に一色なり。(王勃「滕王閣序」) 
秋の江水が遠く連なって、天と同じ色になっている。
古人今人流水の若し。共に明月を看る、皆此の如し。(李白「把酒問月」) 
昔の人も今の人も、流れる水のように生きてはやがて去ってゆく。しかし、明るい月を眺めながら物思いにふけるのは、今も昔も同じであろう。
春宵一刻値千金。(蘇軾『春夜詩』) 
春の夜の一刻の間の景は、千金の値がある。
星月皎潔にして、明河天に在り。(歐陽永叔「秋聲賦」)
白く清らかな星月夜で、天の川がくっきりと浮かんでいる。 
但だ主人をして能く客を酔わしめば、知らず何れの処か是れ他郷ならん。(李白「客中行」)
主人がこのように十分に酒に酔わせてくれている。他郷にいる寂しさなど、どこにあろうか。
露は黄花に冷ややかに、煙は衰草に迷う。(『菜根譚』後集六十九) 
秋深く、露は黄色に咲いた花に冷ややかに降り、煙霧は枯れ果てる前の衰えた草むらに漂っている。
筆頭、花を生ず。(『雲仙雑記』) 
文章の美しいこと。唐の李白は幼少の時、筆の先に花が咲いた夢を見て、そののち文才が大いにふるったという。
筆端、光を吐く、火の若し。(『瑯嬛記』) 
筆鋒が鋭く火のようで、文章に光彩のあるたとえ。
芳樹人なく花自ら落ち、春山一路鳥空しく啼く。(李華「春行寄興」) 
春の山路にて、見る人のない満開の花が散り落ち、鳥は誰も聞いていないのに鳴いている。
事は密なるを以て成り、語は泄(も)るるを以て敗る。(『韓非子』説難) 
計画は秘密を固守することで成就し、相談事は外部に漏れることで失敗する。

人生・人間

自ら其の適を適とす。(『荘子』内篇 大宗師) 
人は、自分の本当の心に適しているものを適として求むべきである。他人の毀誉によって自らの価値観を揺らがせることはない。
好死は悪活に如かず。(『通俗篇』議餘) 
よい死に方をするより、まずくとも生きている方がよい。
朝には青糸の如く、暮には雪の如し。(李太白「将進酒」) 
朝には青糸のような黒髪も、夕べには雪のような白髪となる。人生は移ろいやすく、たちまちに老いを迎えるものである。
歓楽極まって哀情多し。少壮幾時ぞ老いを奈何にせん。(漢武帝「秋風辞」) 
歓楽が極まってくると、心中に一種の寂しさが生ずる。今は若いと思っていても、それがいつまで続くものか。やがては年老いてゆくものではないか。
強梁なる者は、其の死を得ず。(『老子』四十二章) 
強い力にまかせてのさばるような人間は、自然な死に方をすることはできない。
少壮に努力せずば、老大徒(いたずら)に傷悲せん。(沈休文「長歌行」) 
若い頃に努めて勉学に励まなければ、長じてのち、後悔して傷み悲しむことになろう。
人生、朝露の如し。何ぞ自ら苦しむこと此の如き。( 『十八史略』西漢 昭帝)
人生は朝露のように儚いものである。その短い一生を、なぜ自らこのように苦しむ必要があろうか。
人生、古より誰か死なからん。丹心を留取して汗青を照らさん。(文天祥「過零丁洋」) 
人はいつかは死ぬものだ。せめて忠誠の真心を世に留め、歴史の上に輝かせよう。
人生は寄の如し。(魏文帝「善哉行」) 
人がこの世に生きているのは、一時の仮住まいをしているようなものである。
少年いずくんぞ長く少年たることを得んや。海波尚お変じて桑田と為る。(李長吉「刺年少」) 
子供がいつまでも子供でいることができようか。世は移りゆくものである。昨日まで海であった場所が、今日は桑畑となることもあるではないか。
日暮れて途(みち)遠し。吾、故に倒行して之を逆施するのみ。(『史記』伍子胥列伝) 
為すべきことは沢山あるが、もはや私に残された時間は短い。たとえ道義にもとるとも、手段を選んではいられないのだ。
能く俗を脱すれば便ち是れ奇なり。作意して奇を尚(とうと)ぶ者は、奇と為らずして異となる。(『菜根譚』前集百六十九) 
名利にとらわれる風俗を自然に脱しえた人は、優れた人物である。けれども、殊更に奇をてらった言動をする人はただの変人である。
白髪三千丈、愁いに縁って箇の似(ごと)く長し。(李白「秋浦歌」) 
鏡を見ると、三千丈とも思われる白髪。憂愁のために、このように長くなったのだ。
死を悪(にく)むは、弱喪にして帰るを知らざるなり。(『荘子』内篇 斉物論) 
死をにくみ嫌うのは、異郷に放浪して家郷を忘れたようなものだ。死とは故郷に帰ることであり、恐ろしいことでも、嫌なことでもない。
天運の寒暑は避け易く、人世の炎涼は除き難し。(『菜根譚』後集百三十二) 
天の運行による寒暑は避ける方法もあるが、世間人情の冷暖の変化はなかなか除きがたいものである。
人心の同じからざるは面の如し。(『近思録』道體類) 
人間の顔が千差万別であるように、心も人ごとに違うものである。
性は相近し。習うことは相遠し。(『論語』陽貨) 
人間の天性は、もともと近しいものである。個人の習慣によって、大きな違いが生じる。
治乱は天にあらず。(『荀子』天論) 
平和と動乱は、天地が定めるものではなく、全て人間が自身でもたらすものだ。
鳥の将に死なんとする其の鳴くや哀し。人の将に死なんとする其の言や善し。(『論語』泰伯) 
死を前にした鳥の鳴き声は哀しい。また、死に臨んだ人間の言葉には真実がこもっているものだ。
美色は面を同じくせざるも、皆目に佳なり。(『論衡』自紀) 
美女の顔の形は同一ではないが、みな目に麗しく見える。
人の性は悪なり、其の善なるは偽なり。(『荀子』性悪篇) 
本来、人の性質は悪である。それが善になるのは、人間の意思によるところ、つまり人為の結果である。
行路難、水に在らず、山に在らず。ただ人情反覆の間にあり。(白楽天「太行路」) 
人生行路の難しさは、山や川の険阻にあるのではない。常に反復する人情の頼りなき点にあるのだ。

自律・修養

井中より星を視る。(『尸子』廣澤) 
井戸の中から星を見る。私心に蔽われて、見解の狭いこと。
蝉の雪を知らざるが若し。(『鹽鐵論』相刺) 
蝉は夏の間しか生きていないので、冬の雪を知らない。自分が見ていないからといって、人の言を信じない見聞の狭い者のたとえ。
辺幅を修飾すること、偶人の形の如し。(『後漢書』馬援傳) 
表面の体裁だけを整え飾ることは、まるで木偶人形のようだ。
山は高きを厭わず、海は深きを厭わず。周公は哺を吐きて、天下心を帰したり。(曹操「短歌行」) 
山は高ければ高いほどよく、海は深ければ深いほどよい。むかし周公旦は、食事中に食べかけたものを吐き出してまで、訪客を接見した。だからこそ、天下の人々がこぞって心を寄せたのである。
電光影裏、春風を斬る。(祖元) 
その刀も、この私も、全ては空である。たとえ私を斬ろうとも、それは稲妻が春風を斬るようなもので、全く手ごたえがないだろう。
人、流水に鑑みるなくして、止水に鑑みる。(『荘子』徳充符) 
流れる水は鏡にならぬ。だが静止した水は、一切の姿を写し出すことができる。全てを虚心に受け入れる、不動の境地を説いた言葉。
逸は労より出で、楽は憂より出(い)ず。(『明心宝鑑』) 
逸楽は常に労苦や憂慮ののちに生まれるものである。
麒麟も衰うれば、駑馬之れに先だつ。(『戦国策』齊策) 
千里を走る名馬も老衰すれば、駄馬にも先んぜられる。英雄も老衰すれば、常人にさえ及ばない。
剣は砥を待って而る後に能(よ)く利なり。(『淮南子』修務訓) 
刀剣は研がれてこそ鋭利になる。人も修養を重ねることによって初めて賢者となる。
騏は一日にして千里なるも、鴑馬も十駕すれば則ちまた之れに及ぶ。(『荀子』修身篇) 駿馬は一日で千里を駆けるが、駄馬でも怠らずに十日歩けば、やはり千里をゆくことができる。
心を養うには、寡欲より善きはなし。(『孟子』盡心下) 
精神を修養するには、欲望を少なくすることが最上の方法だ。
火を乞うは、燧(ひうち)を取るに若かず。(『淮南子』覧冥訓) 
人に火をくれるよう乞うよりは、自ら火打石を取って火をおこす方がよい。人の力に頼らず、自分の努力を頼むがよい。
習いは性と成る。(『書経』太甲上) 
習慣がつくと、終にはそれが生まれつきの天性と同じになる。
之れを聴くに耳を以てするなくして、之れを聴くに心を以てせよ。(『荘子』内編 人閒世) 
物事は、耳で聴かずに心で聴くことだ。
不言の言を聞く。(『荘子』雑篇 徐無鬼) 
口に出さない言葉、すなわち声なき声を聞くことこそ肝要である。
水の積むや厚からざれば、則ち大舟を負うに力なし。(『荘子』逍遙遊) 
水にある程度の深さがなければ、大きな舟を浮かべることはできない。同様に、学問や修養を重ねなければ、重い任務にあたることはできない。
物すでに章かなれば、目すなわち明らかなり。慮すでに定まれば、心すなわち強し。(『司馬法』定爵) 
物事をよく把握していれば、その状況ははっきり見える。考えが定まっていれば、心をしっかりと保つことができる。
苦中の苦を受けざれば、人の上の人たること難し。(『通俗編』境遇) 
人の上に立とうとする者は、苦しみの中の苦しみを経験せねばならない。
功名富貴の心を放ち得て下せば、便ち凡を脱すべし。(『菜根譚』前集三十三) 
功名や富貴を求める心を捨ててしまえば、平凡俗悪の境地を脱することができる。
惟れ賢、惟れ徳、能く人を服す。(『三国志』劉備) 
君主に聡明さと人徳がなければ、人を動かすことはできない。
桃李言わず、下自ずから蹊を成す。(『史記』李将軍伝賛) 
桃やスモモの木には人が花実を求めて赴くから、その下にはいつしか小道ができる。徳ある人物には自然に人が帰服することのたとえ。
徳は名に蕩す。(『荘子』内篇 人閒世) 
人徳は、名誉心や名聞心によって損なわれてしまう。
古を以て鏡と為さば、興替を見るべし。人を以て鏡と為さば、得失を知るべし。(『十八史略』唐太宗) 
歴史を鏡とすれば、世の興廃の因果を知ることができる。人を鏡とすれば、自らの行いの正邪得失を知ることができる。
来を知らんと欲する者は、往を察せよ。(『鶡冠子』) 
未来のことを知らんとせば、過去のことを考察せよ。
前言往行を識(しる)して、以て其の徳を蓄(やしな)う。(『易経』大畜 象) 
君子は昔の聖賢の言葉や行いを学び、それをもとに自らの徳を養うものである。
千丈の堤も螻蟻の穴を以て潰ゆ。(『韓非子』喩老) 
千丈もあるような巨大な堤防も、螻蛄や蟻による小さな穴のせいで崩れてしまうことがある。些細な油断が、大きな失敗や損害をもたらす。
千慮の一失。(『晏子』雑 下) 
賢人といえども、多くを考えれば、稀に失策もある。
虎を画いて成らずんば、反って狗に類するなり。(『十八史略』東漢 光武帝) 
虎を描いても描き方がまずければ、まるで犬のようになる。同じように、豪傑気質を気取っても、失敗すれば軽薄な体となり物笑いとなる。
荒を包む。(『易経』泰 九二 象) 
人の欠点をも包み容れる。それだけの度量がなければ大事は為せない。
瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず。(古楽府 君子行) 
瓜畑の中で靴を履きなおすと、瓜を盗んでいるのではと疑われる。スモモの木の下で冠を正すと、スモモの実を盗むのではと疑われる。嫌疑を受けるようなことはしてはならない。
己を修めて人を責めざれば、則ち難より免る。(『左伝』閔公二年) 
十分に修身し他人の過失を咎めなければ、危難を避けることができる。
神に先だち鬼に先だちて、まず我が智を稽(かんが)えよ。(『尉繚子』天官) 
神霊に頼るより、まず自らの智力を尽くせ。
胆は大ならんことを欲し、心は小ならんことを欲す。(『旧唐書』孫思邈伝) 
度胸は大きく、注意は細かくするがよい。
雲中の白鶴は,鶉鷃の網の能く羅する所に非ず。(『魏志』邴原伝) 
雲の中を飛ぶ白鶴は、小鳥を捕らえる小さな網にはかからない。高尚な人格者は、世俗のつまらない誘惑に惑わされることはない。
群居しては口を守り、独坐しては心を防ぐ。(『楊升菴集』) 
大勢と一緒にいる時は言葉を慎み、一人でいる時には心中に邪念の起こらぬように努めることだ。
言語を慎みて以て其の徳を養い、飲食を節して以て其の体を養う。(『近思録』存養類) 
日頃から言葉を慎み、失言をふせいで徳を養う。また飲食を慎み、度を過ごさないようにして体を養う。このような平凡なことが実は徳を保ち、健康を保つ要道である。
尺の璧を貴ばずして、寸の陰を重んず。(『文子』道原) 
聖人は大きな碧玉よりも、一寸の光陰を惜しむ。時間の貴ぶべきを表した言葉。
敬、怠に勝てば吉なり。怠、敬に勝てば滅ぶ。(『小学』内篇 敬身) 
敬(つつ)しみの心が怠りの心に勝れば良い結果を招くが、怠りの心が敬しみの心に勝れば、その結果は滅びである。
小人の過つや、必ず文(かざ)る。(『論語』子張) 
小人が失敗をやらかすと、取り繕うことばかり考える。
心は固(まこと)に死灰の如くならしむべし。(『荘子』内篇 斉物論) 
燃えさしの灰は再び燃えることもあるが、燃えつくした灰にはそれはできない。人間の心もその死灰のごとく、動揺しない状態におくのがよい。
善を見ては則ち遷り、過ちあれば則ち改む。(『易経』益 象) 
善なるものを見たら、ただちにその善を行なおうとし、自らの過ちに気づいたら、すぐにそれを改めることだ。
其の独りを慎む。(『大学』傳六章) 
他人が見ていない時にも言行を慎み、自らに恥じない振る舞いをするよう心掛けることだ。
其の身を正すこと能わずんば、人を正すを如何せん。(『論語』子路) 
自らの身を正すことができないで、どうして他人を正すことができようか。
足ることを知れば辱められず。(『老子』四十四章) 
満足するを知れば、過ちを犯すこともなく、世間から辱めを受けることもなくなる。
富は足ることを知るに在り。(『説苑』談叢) 
満足することを知れば、心はおのずと富む。
自ら勝つ者は強し。(『老子』三十三章) 
自分の欲望に打ち勝つ者こそ、真に強い者である。
菜根を咬み得れば、則ち百事做すべし。(『聞見録』) 
常に菜根を食べるような質素な生活を旨として、心を静かに保てば、何事も成功する。
人の過誤は宜しく恕(ゆる)すべし。而れども己れに在りては則ち恕すべからず。(『菜根譚』前集百六十八) 
他人の過ちは大目に見るがよい。けれども自らの過ちに対しては、厳しく追及すべきであり、かりそめも寛大であってはならない。
人の操履は誠実に若くはなし。(『宋名臣言行録』王曾) 
人の品行については、誠実であるのが一番いい。
人は山に躓(つまず)くこと莫くして、垤(ありづか)に躓く。(『淮南子』人閒訓) 
人は高い山につまずくことはないが、蟻塚のような小さいものにつまずくものだ。小事は軽く見る油断から、かえって失敗が多い。
人を責むるの心を以て、己れを責めよ。(『小学』外篇 嘉言) 
他人を責めるような心をもって、己を戒めるがよい。
船を好む者は溺れ、騎を好む者は墜つ。(『越絶書』) 
船を好む者は水に溺れ、乗馬を好む者は落馬する。人は自ら好むところに失敗の機会がある。
身の不善を之れ憂えよ、人の己れを知るなきを憂うなかれ。(『管子』小称) 
人の評判を気にするよりも、自身の至らなさを憂うがよい。
巧詐は拙誠に如かず。(『韓非子』説林上) 
巧みに偽って人を欺くよりは、拙くとも誠心のある方がよろしい。
心に物欲なければ、則ち是れ秋空霽海なり。(『菜根譚』後集九) 
心に物欲がなければ、人は澄んだ秋の空、晴れ渡る海のように清らかな気分になり得る。
人に勝たんと欲する者は、必ず先ず自ら勝つ。(『呂覧』先己) 
人に勝とうとする者は、まず己の欲望に打ち勝たねばならない。
一年の計は春に在り。一日の計は晨(あした)に在り。(『梁元帝纂要』) 
一年の計画は春において立てよ。同様に、一日の計画はその日の朝のうちに立てよ。
水至って清ければ、則ち魚なし。人至って察なれば、則ち徒なし。(『漢書』) 
清すぎる水に魚は住まない。同じように、あまり細かいところまで目が届く人のもとには人材が集まらない。
自ら飽いて人の飢えを知らず。(『通俗編』行事) 
自分が満腹になると、他人のひもじさを察し難い。
琥珀は腐芥を取らず。(『呉志』虞翻伝)
琥珀のような美玉は、腐朽した塵芥を吸取しない。廉潔の士は不正の品(賄賂)を受け取らないたとえ。
吾れは道を師とするなり。夫れ庸ぞ其の年の吾れより先後生なるを知らんや。(韓文公「師説」) 
私が師を求めるのは、道を究めんとするがためである。その師が自分より早く生まれたか、後に生まれたかということを意に介す必要はない。

善悪・道徳

悪は小なるを以て之れを為すこと勿れ。善は小なるを以て之れを為さざること勿れ。(『蜀志』先主劉備伝) 
悪事はいかに些細なことであっても行ってはならない。対して、善行は取るに足らないようなことであっても行わねばならない。
悪を慕う者は、宵の虫の明燭に赴くが猶(ごと)し。(『抱朴子』) 
夜の虫が灯火に飛び込みその身を焼くように、悪を慕うものは必ず自ら身を亡ぼす。
悪を為して人の知らんことを畏るるは、猶お悪中に善路あり。(『菜根譚』前集六十七) 
悪いことをして他人に知られないかと恐れる者は、その他人に対して恥じる心のあるところに、まだ善に向かう道が残されている。
好事は門を出でず、悪事は千里を行く。(『傳燈録』) 
善いことを行なってもなかなか世には知られないが、悪事はすぐに千里の遠方までも知れわたる。
善に従うこと流るるが如し。(『左伝』昭公十三年) 
よいと知ったならば、水の流れるようにこれに従っていくべきである。
善を為す者は、天之れに報ゆるに福を以てし、不善を為す者は、天之れに報ゆるに禍を以てす。(『荀子』宥坐編) 
天は善行をなす者には幸福を授け、不善をなす者には禍いをもたらす。
不義にして富みかつ貴きは、我れに於いて浮雲のごとし。(『論語』述而) 
悪事によって手に入れた富や地位は、私にとって浮雲のように儚く頼りないものである。
不正にして合えば、未だ久しゅうして離れざる者はあらず。(『近思録』出処類) 
正しくない動機から結ばれた者同士の交際は、決して長続きしない。
仁の不仁に勝つは、猶お水の火に勝つがごとし。(『孟子』告子上) 
仁は必ず不仁に勝つ。それは水が火に勝つように当然なことだ。
敬を以て孝するは易く、愛を以て孝するは難し。(『荘子』外篇 天運) 
敬と愛はともに親孝行の要素として考えられているが、そのうちの恭敬をもってする孝行はまだ易しく、本当の情愛をもってする孝行は難しい。
己れの欲せざる所、人に施すこと勿れ。(『論語』衛霊公) 
自分がされたくないことは、他人にもしてはならない。
山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し。(『陽明全書』) 
山賊を討伐するのは容易だが、心中の邪念を打ち破ることは難しい。
子を愛しては、之れに教うるに義方を以てす。(『小学』内篇 稽古) 
自分の子を愛するならば、これに人間の道をしっかりと教えるがよい。義方とは六順(君議、臣行、父慈、子孝、兄愛、弟敬)のこと。
身体髪膚は之れを父母に受く。敢えて毀傷せざるは孝の始めなり。(『孝経』開宗明義) 
我々の身体は、髪一筋や皮膚一片にいたるまで、父母から頂いたものである。この身体を傷つけないようにすることが、親孝行の第一歩である。
積善の家には、必ず余慶あり。(『説苑』談叢) 
善行が積み重なれば、その報いとして必ず子孫にまで幸福が及ぶ。
天知る。地知る。子知る。我知る。(『十八史略』) 
誰も知らないから、不正を為してもよいなどと考えてはいけない。天が知っているし、地も知っている。君も、私も知っているのだから。
徳を好むこと、色を好むがごとき者を見ず。(『史記』孔子世家) 
美女を好むような熱心さで、徳の涵養に努める人物を見たことがない。
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