特別展「三国志」を観ました (その3 / 英雄達の愛用品)

この記事では、2019年10月1日(火)~2020年1月5日(日)に九州国立博物館で開催されている、特別展「三国志」の展示品の所感について記しています。

なお、記事中に展示品の写真が多数ありますが、特別展「三国志展」は全展示の撮影及び個人利用が許可されていることを書き添えておきます。自宅でも展示品を細部まで観賞できるため、嬉しい計らいでした。

「曹休」印 (三国時代・魏 / 3世紀)

前回の記事では「いずれの品々も明や清の時代に作られたもの、つまり、三国志の舞台であった後漢や晋の時代から千数百年も後に成立したもの」と書きましたが、これは英雄達の姿を表した肖像に関しての話です。肖像に限らなければ、後漢時代や三国時代に生み出された品々も数多く展示されていました。

その中でも、明らかに三国志の登場人物の名前を示すこの印章は、三国志ファンに浪漫を感じさせるものでした。この小さな青銅製の印章に刻まれた名前は「曹休」。 曹休は「正史」「演義」どちらにも活躍の場がある有名武将のひとりで、魏の武帝(曹操)・文帝(曹丕)・明帝(曹叡)の三代に仕えた、強国魏の軍事面における重臣ですね。

曹休は228年に魏と呉の間で起きた石亭の戦いにおいて、呉の周魴の偽装投降を見破ることができず、結果として魏軍の大敗を招きました。主にこの敗戦に起因して、後世の評価と人気は高くありません。しかし、その功績をたどってみれば、まさに歴戦の名将。事実上の主将となった218年の漢中攻防戦(武都の戦い)では、劉備軍の計略を看破して呉蘭・雷銅らを打ち破り、蜀の名将である張飛・馬超らを敗走させました。

また、曹操の腹心かつ魏の重鎮であった夏侯惇が死去すると、後任として呉への備えを任され、張遼・臧覇ら魏の猛将を指揮して呉と戦っています。 そんな英雄の愛用した印章が、今まさに眼前にある…そう思うと、かなり感慨深いものが。装飾を排した簡素なつくりであることも「もしや、戦陣でも用いたものだから?」と想像をかき立てます。

まあ、たとえ「曹休」と刻まれているとしても、曹休の愛用品であった確証はありません。ただし、この印章は後漢時代から三国時代の特徴をそなえた大型墓の副葬品として出土したものであり、この墓からは被葬者と思しき約50歳の男性(曹休!?)の遺骨も発見されているといいますから、ある程度の信頼性があると見ることができるかもしれませんね。

金製獣紋帯金具 (後漢時代 / 2世紀)

曹休の印章は装飾のないシンプルなつくりでしたが、同じく魏の王族ゆかりの品である「金製獣紋帯金具」は、黄金の金属板を裁断して透かし彫りを施し、金粒や貴石象嵌で装飾したもので、目が眩むばかりの豪華さ!少し分かりにくいですが、中央にこちらを向いた龍のような獣が、周囲にも小さな獣が配されています。

さて、先に「魏の王族ゆかりの品」と書きましたが、この帯金具(=ベルトのバックル)に関しては、魏の初代皇帝・曹丕にまつわる逸話が、魏の歴史書『典略』に残されています。当時、このような豪奢な帯金具をつけた帯のことを「廓落帯(かくらくたい)」と呼んでおり、ある時、曹丕は臣下の劉楨に廓落帯を下賜しました。

その後、曹丕は自分も廓落帯を所持したくなりましたが、既に作り手が絶えていたため、複製の手本とするために劉楨の廓落帯を借りることにしました。劉楨は快く差し出しましたが、その際に曹丕は「物は持ち主によって貴くなるものだ。賤しい身分の者の手にあるときは、至尊(天子)の側では用いられない。今これを取り上げるけれども、返してくれないと疑ってはならぬぞ」 と劉楨をからかいました。

これに対して、劉楨は「屋敷が出来上がったとき、初めて足を踏み入れるのは棟梁です。稲穂が実ったとき、それを初めて賞味するのは農夫です。のちに尊貴な方に用いられるとしても、えてして賤しい者の手が触れているのです」と返答。婉曲ですが「私が廓落帯を持っていても、別に問題はないでしょう」と言い返したわけですね。さすが当時の一流文学者「建安七子」の1人、巧妙な物言いです。

結局、曹丕が劉楨に廓落帯を返したのかどうかは『典略』にも記載がないようで解釈に困ります。曹丕が「劉楨から借りた廓落帯をそのまま返さないつもりだった」のか、それとも「返すつもりではあったけれども劉楨を脅かして楽しもうとした」のかは今や闇の中というわけですね。曹丕の人物をどう見るかで見解が分かれるところでしょう!

なお、展示されていた「金製獣紋帯金具」は、袁術が皇帝を僭称した地である「寿春」にあった古墓から出土したもので、残念ながら曹丕と劉楨がやり取りした現物ではありません。しかし、本品はその精緻なつくりから明らかに王侯貴族の所有物であったと推察され、曹丕が欲しがったのも概ねこのような品であったと想像できます。

また、あわせて展示されていた「白玉獣文鮮卑頭」も、白玉板を透かし彫りにし、細かい線刻で瑞獣の姿を表現した逸品。体躯に空いた小さな孔には、貴石が象嵌してあったものと推察されます。裏面にある刻銘により、西晋の武帝・司馬炎が皇位についた時期に作られたと判断されることから、即位の大典に合わせて特注したとの見方もあるようです。

さて、今回はここまでとします。次回は「その4 / 英雄達の弔い」と題し、曹操の墓からの出土品等について記したいと思います。

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