特別展「三国志」を観ました (その4 / 英雄達の弔い)

この記事では、2019年10月1日(火)~2020年1月5日(日)に九州国立博物館で開催されている、特別展「三国志」の展示品の所感について記しています。

なお、記事中に展示品の写真が多数ありますが、特別展「三国志展」は全展示の撮影及び個人利用が許可されていることを書き添えておきます。自宅でも展示品を細部まで観賞できるため、嬉しい計らいでした。

中山靖王・劉勝の副葬品 (前漢時代 / 前2世紀)

220年に魏王・曹丕が漢王朝の禅譲を受けて皇帝となると、漢中王・劉備は「中山靖王・劉勝の末裔である自分こそ、漢王朝の正当な後継者である」と主張し、対抗するように皇帝に即位します。

劉勝は『三国志』に登場しませんが、ことあるごとに劉備(と関係者)がその名を口にするため、読者の印象に残る人物です。特別展「三国志」では、まさにその劉勝の墓から出土した品々が展示されていました。

玉装剣 (1級文物)

中山靖王・劉勝は前漢の第6代皇帝・景帝の子で、前漢の最盛期を築いた第7代皇帝・武帝の異母兄にあたります。諸侯王でありながら、酒色に溺れた放蕩な人物であり、実子だけで50人以上、孫も合わせると120人以上に及んだとか。

うーん、劉備はそんな暗君をよく「自分の先祖だ」と言えたもので。それに、子沢山だったなら中国各地に子孫がいるはずで、稀少度と付加価値が低そうですが…まあ、このあたりについては、話が逸れるので置いておくとして。劉勝の墓(満城漢墓)は河北省にあり、1968年に発掘されました。

出土した劉勝の愛用品であろう銅剣の刀身には鍍金(めっき)が施され、鞘を飾った玉器には瑞獣の彫刻が施されています。劉勝は王族ですから当然といえば当然ですが、この剣は戦場で用いる品ではなさそう。優美なつくりで、武器というより権威の演出を目的とした美術品のように思われます。

ちなみに、古代中国の実用武器は「銅剣 → 鉄剣 → 鉄刀」と進化していきました。青銅は硬く鋭い刃を作ることができるが、高価なうえ脆く折れやすい。鉄剣は安価で硬く折れにくいが、刺突武器であり攻撃範囲が狭い。これらの改良品として、振り回すことで広範囲を攻撃できる鉄刀が生み出され、三国時代における主要な武器となったのです。

豹・壺 (1級文物)

満城漢墓には劉勝の妻である竇綰(とうわん)も埋葬されており、竇綰の墓からは写真左の「豹」が出土しました。この置物は銅製で、内部には鉛が詰められ、表面に斑点を金象嵌で巧みに表現しています。豹の眼に埋め込まれているのは白瑪瑙ですが、接着剤に朱が混ぜられているため、赤く輝いて見えます。

写真右は劉勝の墓から出土した蓋付きの「壺」で、銅製の容器に金・銀で鍍金を施し、緑色のガラスがはめ込まれています。銀とガラスは変質・変色していますが、それでも見る者にきらびやかな印象を与える逸品。本体と蓋に刻まれた文字から、漢王朝内の部署で用いられた後に、劉勝に与えられたものと考えられます。

用途については、「豹」は貴人が座る敷物がずれないために置いた重しであり、「壺」は宴席で酒を入れて供した容器であると推察されるとのこと。このような贅を凝らした品を副葬品として墓に納めたことからは、葬儀や埋葬を豪奢に執り行うのが慣例であったという、前漢時代の文化・風潮が感じられます。

魏武帝・曹操の副葬品 (後漢~三国時代・魏 / 3世紀)

劉勝も『三国志』ファンにとっては馴染みのある人物ですが、特別展「三国志」では、もっと有名な英雄の副葬品も展示されていました。三国時代における最大国家「魏」の礎を築いた曹操の墓が、会場内に原寸大で再現されたうえ、その副葬品が中国国外では初公開されていたのです!

曹操は、戦場ではその機知と『孫子』を始めとする兵法の実践により神の如き用兵を見せ、内治では屯田制や兵戸制といった後世まで引き継がれる革新的政策を実施し、さらには自身と息子らの文才を活用して「建安文学」を称揚するなど、数多の偉業をなしています。

『三国志』の著者である陳寿は「武帝紀」において「非常の人、超世の傑 (並外れた人物で、時代を超えた英傑)」と表現していますが 、曹操の事績を考慮すると反論のしようがありません。まさにスーパーマンとでも言いましょうか、憧れと畏れを感じさせられます。

石牌 (1級文物)

2008年~2009年に河南省安陽市で発掘された墓は、後漢から三国時代の過渡的な様相を呈し、墓の規模と構造は諸侯王に匹敵するものでした。また、墓が築かれた場所は古記録にみる曹操高陵の所在地と合致しており、さらには副葬品に「魏武王」と記した石牌があったことから、この墓こそが稀代の英雄を葬った曹操高陵であることが確定したのです。

写真右がその石牌で「魏武王常所用挌虎大戟(曹操が愛用した虎をも倒す大戟)」と記されています。長さはたった10cmほど、こんな小さな石板が歴史的大発見に繋がるのですね。写真左2枚の石牌にも副葬品目が記されており「赤色の文様の直領と白色の下衣」と「高さ80cm程度の2曲1双の絵屏風」が埋葬されたことを示しています。

罐 (1級文物)・ 觿・瑪瑙円盤

上述の「石牌」のほかにも様々な出土品が展示されていましたが、前述の劉勝の墓からの出土品に比べると、なんだか地味。貯蔵用の「罐」を見ても、表面の青磁釉にはムラが多く、耳の付け方もざっくりと粗っぽい。位人臣を極め、この世の春を謳歌した人物の副葬品としては粗末な印象を受けます。

近くに展示された別の「罐」も大差はなく、そのつくりは非常にシンプル。 艶々とした透明釉の化粧が上品であり、白磁の最初期の作例であるために考古学的価値は高いようですが、劉勝の墓から出土した煌びやかな「壺」に比べると見劣りしてしまいます。 天下の実力者の副葬品が、なぜこのように質素なのか…その答えは、曹操の遺言にありました。

220年正月、曹操は次のように遺言を布告します。「天下は未だ安定していないゆえ、古式に倣うことはできない。よって、埋葬後は喪に服す必要はない。将兵は持ち場を離れず、官吏は職務を遂行せよ。遺体を飾ってはならぬ。金玉珍宝のごとき宝飾品も墓に入れてはならぬ」

つまり「葬儀の簡素化=薄葬」を厳命したわけです。 確かに、2008年の曹操高陵の発掘に際し、後漢の諸侯王であれば用いられるべき玉衣は、断片すら出土しませんでした。上流層の墓であれば副葬されてよい金細工の類もなく、日常的に用いたであろう、白玉製の「觿(帯をほどく道具)」や「瑪瑙円盤(使途不明)」がいくらか華を添える程度でした。

曹操高陵は何度も盗掘に遭っているため当初の姿を完全に知ることはできませんが、出土品から判断するに、曹操の遺言は確実に実行されたと見てよいでしょう。徹底的な合理主義者であった曹操は、死に際しても豪奢な葬儀という「虚礼」より、自国の安定を図るという「実利」を取り、自らのポリシーを貫いたというところでしょうか。

さて、今回はここまでとします。次回は特別展「三国志」についての総括的な印象・感想と、旅行中に食べたものなどについて記し、『三国志』関連の記事を締めくくりたいと思います。

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