映画『ボヘミアン・ラプソディ』を観て

本日、映画『ボヘミアン・ラプソディ』を観ました。話題の作品なので説明不要かとも思いますが、2018年に公開されたイギリスのロックバンド:クイーンのボーカリストであるフレディ・マーキュリーを主人公とする伝記映画です。この映画の総評を一言で述べれば、私が過去に見た音楽を主題にした映画の中では最高の作品でした。

伝記映画とアーティストの評価

アーティストの生き様を描く伝記映画については、複雑な思いがあります。なお、以下では伝記 “映画” に関する所見を書いていますが、小説や漫画でも同様かと思います。

伝記映画を観ると…

数奇な人生を送ったがゆえに、その生き様が映画化されるアーティストは多くいます。それらのアーティストの作品に実際に触れる際 [①伝記映画を観ないで作品に触れた場合] [②伝記映画を観てから作品に触れた場合] どちらが作品に対する思い入れが深くなるでしょうか。間違いなく②の方が思い入れが深くなるでしょう。そして、このような思い入れは作品を評価する際に弊害を生む場合があります。

深読みを誘う伝記映画

絵画で例えれば、陰鬱な色合いで描かれた作品について、まっさらに観賞すれば「暗い作品だなあ、あまり好きな色ではないかも」程度の印象に留まるものを、伝記映画を観た後に観賞すると「作者は幼少期に母と離別しているから…その悲しみが描かれた傑作」とか「作者は青年期にひどい恋愛をしたから…愛への渇望が現れた秀作」などと評価することもあるのではないでしょうか。

このような姿勢については、作品から感じ取れるものだけでなく、作者のバックグラウンドも考慮して評価するという点から「深読みしすぎじゃね?」という印象が否めません。(補足)文学や芸術の研究では、 作品成立時の作者のバックグラウンドについて調べ、調査結果と作品を絡めて解釈するアプローチが存在します。しかし、そうしたアプローチを評価に繋げてしまうと、もはや「作品評価」ではなく「人物評価」になるのではと考え、このように書いています。

評価における主観と客観

個人的意見ですが、アーティストは作品を生み出すことを生業としている以上、自身のアウトプットしたいものを作品上に出し尽くす必要があると考えます。悲しみにせよ、喜びにせよ、怒りにせよ…自身が表現したいものを作品上に表現しきること…それがアーティストが到達すべき境地であり、多かれ少なかれ、その境地に達するためにアーティストは研鑽を重ねているのでしょう。

言うなれば、作家は文章、画家は絵画、建築家は建築物、そして音楽家は楽曲もしくは演奏により、客観的に評価されるべきだと思うのです。数年前に話題になった佐村河内守のように「耳が聴こえないのにこんな曲が作れるなんてすごい」などと、作者のバックグラウンドを過剰に踏まえた主観によって評価されるべきではないのではと。

上述の考え方から、私は『ボヘミアン・ラプソディ』を観に行くのもあまり気が進みませんでした。フレディ・マーキュリーがある種の悲劇的な人生を送ったことは知っていましたから、映画を観ることで同情的な姿勢となってクイーンの音楽を客観的に評価できなくなることが恐かったのです。

伝記映画の弊を超越した傑作

不安を抱きながら映画館に向かった私ですが、映画を観始めると一切が杞憂であったことを悟りました。私の不安を吹き飛ばしてくれたのは、主にこの映画が持つ以下の3つの要素であったと思います。

苦悩に関する表現が過剰でない

フレディ・マーキュリーは、自身がインド出身であることや、過剰歯であることに若い頃からコンプレックスを抱いていました。また、性的マイノリティ(ゲイ)であることを自覚した際にも、当時の恋人であったメアリー・オースティンとの関係性などを理由として、深く苦悩したと言われています。

フレディの私生活における苦悩については本作でも描かれますが、不思議なことに、主演のラミ・マレック演じるフレディは怒りや悲しみといった感情を激しく表出させることがあまりありません。フレディがメアリーを求めているにも関わらず両者の間に徐々にすれ違いが生じる様子や、他のバンドメンバーは妻子を得ているにも関わらずフレディは孤独である様子が静かに描かれることが多い印象です。

このような描写によって、観客はフレディが解決しようのない苦悩を抱いていることを徐々に知覚していくわけですが、この手法が前述の「伝記映画は芸術家を客観的に評価することを阻害しがち」という問題点への良い対策になっています。

孤独を埋めるためにフレディが派手なパーティを開催するシーン

仰々しい描写で喧伝すれば「なんて可哀そうな人」という印象に簡単に結びついてしまいますが、同様の事実を静かにゆっくりと観客に悟らせれば「深く苦悩しながら、名曲を生み出したんだな」という印象に留まるかもしれません。少なくとも私は「単なるお涙頂戴のストーリーになるのではと恐れていたけれど、どうもそうではないらしいぞ」と目を輝かせて観賞することができました。

平成31年1月号の雑誌「BURRN!」で、ブライアン・メイが「すべてを見せているよ。フレディは完璧だなんて、誰も思ってはいない。だが、彼は確かに特別だった。それが全部わかる。だが根拠のないやり方にはなっていない。(中略)これは真実を描いている映画だよ。事実に徹して正直に、でも、同時に楽しんでもらえる手法でね」と語っていますが、このような姿勢が絶妙に抑制された描写に繋がっているのでしょうね。

クイーンの楽曲に頼らない

クイーンの楽曲にはドラマティックな名曲が多すぎます。極端な話、一枚の風景画や子犬を写した写真のバックにクイーンの楽曲を流し、それを撮るだけでも泣ける映像作品が仕上がるのではと思うほどです。そういった意味で「演劇のクオリティは二の次で、クイーンの楽曲に頼って盛り上げる映画という恐れはないか」という気持ちで観始めました。

結論を言えば、これまた完全に杞憂でした。ブライアン・メイ役のグウィリム・リー、ジョン・ディーコン役のジョー・マッゼロ、ロジャー・テイラー役のベン・ハーディはいずれも卓越したミュージシャンに見える≒クイーンのメンバーらしく見えます。

風貌だけ見れば、クイーンのメンバーに瓜二つというわけではなく、いずれも楽器を演奏した経験すらさほどなかったようですが、非常にそれらしく見えるのは、各々が自身が演じる役柄への理解が深く、演技の研究に余念がなかったことによるのでしょう。

そして、なんといっても白眉なのは、主演でフレディを演じるラミ・マレックの演技です。ラミについても、容姿はフレディに酷似しているというわけではありません。フレディほどマッチョではなく、輪郭も細面です。それにも関わらず、劇中のラミが演じるのはまさにフレディそのものです。

フレディ・マーキュリーとラミ・マレック マイクの握り方まで一致

映像でよく知られているステージ上でのパフォーマンスを観れば「おお、このカリスマ感はフレディそのもの」と思いますし、プライベートでの振る舞いを観ても「フレディならこういう風に話すんだろうなあ」と思わされます。どうも、ラミはクイーンのあらゆる映像作品を見まくり、インタビュー音源を聴きまくり、フレディの母親の喋り方から彼の言葉のアクセントについて研究するなど、1年以上を費やして役作りを行ったようですね。

こうした出演陣の並外れた努力によって、本作は演劇作品としても非常に優れた作品となっています。たとえ、クイーンの楽曲を取り除いたとしても十分に観れる映画になるのではないでしょうか。こうして、私の「クイーンの楽曲に頼った映画なのでは」という心配はいい意味で裏切られたわけです。

ここぞのときに爆発する楽曲の魅力

「クイーンの楽曲を取り除いたとしても十分に観れる映画 」と書きましたが、実際はクイーンの名曲がこれでもかと挿入されているわけで。作中でフレディの恋愛に深く関わる “Love of My Life”、そして映画のタイトルでもある “Bohemian Rhapsody” を初めとして、クイーンが誇る名曲が怒涛のように押し寄せてきます。

“Bohemian Rhapsody” をレコーディングするシーン

作品自体がドラマティックであることに加えて、映画館の良音響で聴くクイーンの楽曲がまた胸に迫ります。私はオープニングで “Somebody to Love” が流れた時点でもう泣いていました。どの曲が流れるのかを話すのもネタバレになると思うのでこれぐらいに留めますが、これらの楽曲が効果的なタイミングで流れることによって、観客は何度もカタルシスへ誘われ、本作を何倍も魅力的に感じてしまうわけで…まったくニクイ趣向です。

まとめ

興奮が冷めやらぬままあれこれと書きましたが、本作について総括すると [①出演陣の演技が素晴らしく、特にラミのパフォーマンスには鬼気迫るものがある] [②脚本や演出も素晴らしく、伝記映画の弊を感じさせない] [③クイーンの音楽はもちろん素晴らしく、作品の魅力を何段階も高めている] といったところでしょうか。

クイーンには有名な楽曲が多いですし、知らない曲でも一聴すれば耳に残るので「クイーンをあまり知らないから」なんて尻込みする必要はないかと。素敵な音楽と演劇に浸りたい方は、劇場に足を運ばれてはいかがでしょうか。後悔はしないと思います。

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